たんぽぽ商店街の雨の日
雨の日になると、たんぽぽ商店街は少し静かになる。
八百屋の軒先には透明な水滴が並び、古いアーケードの屋根を叩く雨音が、まるで遠くの拍手のように響く。魚屋の店先からは氷の匂いが漂い、向かいの喫茶店ではコーヒー豆を挽く音が聞こえてくる。
商店街の中央には、「くるみ時計店」という小さな店があった。
店主は七十歳くらいの老人で、名前を久米という。背は低く、いつも丸い眼鏡をかけていた。店には古時計がぎっしり並び、壁という壁で振り子が揺れている。
カチ、コチ、カチ、コチ。
店の中では、いつもたくさんの時間が鳴っていた。
「こんにちは」
雨の午後、小学生の少女が店へ入ってきた。
ランドセルを背負ったまま、入口で靴を軽く鳴らす。
「おや、真理ちゃん」
久米は細い目をさらに細めた。
「学校帰りかい」
「うん。お母さんにおつかい頼まれたの。時計の電池くださいって」
「どんな時計だろう」
「白くて、丸くて、朝になるとうるさいやつ」
「それはたいてい、うるさいねえ」
久米は笑いながら引き出しを開け、小さなボタン電池を取り出した。
真理は店内を見回した。
「ここって、いっぱい時計あるよね」
「まあね」
「全部、時間ちがう」
「わざとだから」
「なんで?」
久米は少し考えたあと、静かに答えた。
「時間が一個だけだと、窮屈だからさ」
真理には意味がよくわからなかったが、なんとなく格好いい言葉に聞こえた。
「ふーん」
外では雨が少し強くなっていた。
商店街を歩く人たちも足早で、魚屋の主人は新聞紙で商品を覆っている。
「しばらく雨宿りしていくかい」
久米が言った。
「うん」
真理は店の隅にある丸椅子へ座った。
時計の音が心地よい。
店の奥では、小さな鳩時計が突然「ポッポー」と鳴いた。
真理は笑った。
「この鳩、ちょっと変な顔」
「昔からなんだ」
「なおさないの?」
「変な顔にも役目がある」
久米は真面目な顔でそう言った。
真理はまた笑った。
そのとき、店の入口が勢いよく開いた。
「久米さん!」
飛び込んできたのは、向かいの八百屋の主人だった。
「うちの時計、また止まった!」
「おやおや」
「さっきまで動いてたのに、急にだよ。もう三回目だ」
久米は椅子から立ち上がり、ゆっくり時計を受け取った。
古い掛け時計だった。
彼は裏蓋を開け、中を覗き込む。
「ああ」
「直るかい?」
「これは、雨の日だから止まってる」
八百屋の主人は首をかしげた。
「雨の日?」
「湿気が苦手なんだ、この時計」
「時計に性格でもあるみたいな言い方だな」
「長く使うと、だいたいそうなる」
久米はドライバーで軽く中を調整した。
すると時計は、またコチコチ動き始めた。
「おお!」
八百屋の主人は感心した。
「やっぱり久米さんは名人だ」
「時計の声を聞いてるだけだよ」
主人が帰ったあと、真理が尋ねた。
「ほんとに時計の声、聞こえるの?」
「少しだけね」
「うそだあ」
「信じなくてもいいよ」
久米は笑った。
その夜、真理は家でその話をした。
だが母親は、夕飯を作りながら適当に相づちを打つだけだった。
「変わったおじいさんねえ」
父親は新聞を読みながら言った。
「昔の職人ってのは、みんなそんなもんだ」
翌日も雨だった。
真理は学校帰りにまた時計店へ寄った。
すると店の前に、小さな人だかりができている。
商店街の人々が空を見上げていた。
「どうしたの?」
真理が尋ねると、魚屋の主人が言った。
「変なもんが飛んでる」
空には、銀色の小さな点が浮かんでいた。
鳥でも飛行機でもない。
雨雲の下で、静かに止まっている。
「ドローンか?」
「いや、動かないぞ」
商店街の人々がざわざわしていると、久米が店から出てきた。
彼は空を見上げ、小さくため息をついた。
「来たか」
「知ってるんですか?」
真理が尋ねる。
「まあね」
「何なの、あれ」
久米は少し困った顔をした。
「配達員みたいなものかな」
「空飛ぶ郵便屋さん?」
「そんなところ」
その夜、商店街ではその話題でもちきりだった。
「宇宙人じゃないか」
「秘密兵器だろ」
「新型の天気観測機だってテレビで言ってたぞ」
みんな好き勝手なことを言っていた。
だが翌朝になると、銀色の物体は消えていた。
代わりに、くるみ時計店のシャッターが閉まっていた。
定休日ではない。
真理は不思議に思った。
昼になっても開かない。
夕方になると、商店街の人々も心配し始めた。
「久米さん、具合悪いんじゃないか」
「救急車呼ぶか?」
しかし夜になるころ、シャッターはゆっくり開いた。
久米が何事もなかったように店を掃除している。
「大丈夫?」
真理が聞くと、久米は頷いた。
「ちょっと点検してただけだよ」
「時計を?」
「うん。大きな時計をね」
真理は店の中を見回した。
だが特別大きな時計は見当たらない。
「どこにあるの?」
「上のほう」
久米は曖昧に笑った。
数日後、雨は止み、商店街には初夏の日差しが戻った。
八百屋の前にはスイカが並び、魚屋の店先では子どもたちが氷を触って遊んでいる。
真理は学校の帰り道、また時計店へ寄った。
「こんにちは」
だが返事がない。
店内は静かだった。
いつも鳴っている時計の音が、一つもしない。
真理は不安になった。
「久米さん?」
店の奥へ進む。
すると、作業机の上に一枚の紙が置いてあった。
そこには丸い字で、こう書かれている。
『しばらく留守にします。時計は止めてあります』
真理は首をかしげた。
時計を見る。
確かに、全部止まっていた。
振り子も動いていない。
店全体が、時間を忘れてしまったみたいだった。
そのときだった。
天井の奥から、小さな機械音が聞こえた。
ウィーン。
真理が顔を上げる。
すると天井板が静かに開き、銀色の丸い機械が降りてきた。
真理は驚いて後ずさった。
機械は人の頭ほどの大きさで、青い光を点滅させている。
『確認』
機械が喋った。
『時刻管理員クメ、離脱済み』
真理は口を開けたまま固まった。
『代理確認を開始』
「え?」
『この地区の時間進行速度、毎秒一秒で維持されていました』
「え?」
『管理員不在により、通常速度へ復帰します』
「ええ?」
機械は少し考えるように光った。
『説明不足でした』
「かなりね」
『この商店街は、銀河標準時間から切り離された低速時間区域です』
真理はまったく意味がわからなかった。
『久米管理員は、あなた方がゆっくり暮らせるよう、時間流速を調整していました』
「ゆっくり?」
『この区域の一日は、外部宇宙では約三年に相当します』
真理はぽかんとした。
『つまり、あなたが十歳になる間に、外では約三万年が経過しています』
「ええええ!?」
機械は冷静に続けた。
『この商店街は、絶滅寸前の地球文化保護区として保存されています』
「ちきゅう?」
『はい。現在の銀河では極めて貴重な文化です』
真理は頭を抱えた。
「じゃあ、ここ地球じゃないの?」
『地球文化を再現した人工居住区です』
「お父さんもお母さんも?」
『住民です』
「魚屋さんも?」
『住民です』
「八百屋さんも?」
『住民です』
「鳩時計も?」
『あれは鳩時計です』
真理は少し安心した。
機械はまた青く光った。
『なお、久米管理員は退職しました』
「退職」
『定年です』
「宇宙人にも定年あるんだ」
『あります』
「どこ行ったの?」
『温泉惑星への旅行を希望していました』
真理はしばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「なんか、久米さんっぽい」
機械は返事をしなかった。
代わりに、店の時計が一斉に動き始めた。
カチ、コチ、カチ、コチ。
止まっていた時間が戻ってくる。
『新任管理員を設定します』
機械が言った。
「新しいおじいさん来るの?」
『候補者確認』
青い光が真理へ向いた。
『適性値、良好』
「え?」
『時計への親和性を確認』
「え?」
『時間感覚、安定』
「え?」
『新任管理員として推薦します』
真理は目を丸くした。
「わたしが?」
『はい』
「学校あるし」
『両立可能です』
「宿題もあるし」
『考慮します』
真理は困った。
そのとき、店の奥の鳩時計が鳴いた。
ポッポー。
相変わらず少し変な顔だった。
真理は笑ってしまった。
「……まあ、ちょっとだけなら」
機械が明るく光る。
『契約成立』
「えっ、今ので?」
『はい』
「ずるい!」
だがその日から、真理は放課後になると時計店へ通うようになった。
時計のねじを巻き、振り子を調整し、ときどき商店街全体の時間をほんの少しだけ遅くする。
夕焼けが長く見られるように。
夏祭りが少しでも続くように。
みんなが急ぎすぎないように。
商店街の人々は、そのことを知らない。
ただ最近、「なんだかこの町は落ち着くねえ」と言うようになった。
真理は時計店の奥で、小さく笑う。
そして今日も、たんぽぽ商店街には穏やかな時間が流れている。
銀河のどこよりも、ゆっくりと。